昭和43年08月04日 朝の御理解



 御理解 第41節
 「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも練り出すがよい。」

 此方の道は、祈念祈祷で助かるのでない。話を聞いて助かるとも言うておられる。かと言うとここのように話を聞くだけが能ではないとこういうておられる。わが心からも練り出すがよい。だからねり出すがよいということは、考え出すがよいという事じゃないと思う。ね、いわば腕をこまねいて、そしてその事をじっと考える。ね、というような意味のことではない。ね、やっぱり練り出さなければいけん。
 それには話を聞いたことを私は行じてみなければいけん。ね、行じ方が違うかもしれん、頂き方が間違っとるかもしれん。ね、いわゆる勘違いというのがある。いわゆる、同じお話のなかでも、甲の人は赤と頂き、乙の人は白と頂いておる場合が多いのです。「今日の御理解ありがたかったですね。」どこがありがたかったですか、それは、その人その人によって違うのです。
 けれども、その御理解を解いて下さる、本当の芯とでも申しましょうか、ここが分かってくれ、と云うて下さっておる、そこが分かってない。いうなら、枝葉のところが分かっておる。ね、それでそこを行じたところで、おかげにゃならん。だからこれは、自分の頂き方が間違っておったんだなと思うて、又・・?御教えなら御教えの頂きどころというものを頂きなおして、又行じなおさねばいけん。
 ひとつの事を馬鹿のごと思い込んでですね、おかげも頂けないのに、自分の心にも有難いものを感じる事が出来けないのに、こうだと言いきったり、思い込んだりしておる人の滑稽を、私は時々思う事がある。それではひとつも練り出さない。同じことばっかりをして練り出すわけじゃない。これは間違っているんじゃないかということを気が付いて、又ああでもなかろうか、こうでもなかろうかと、行じなおしてみる。
 そこからです、お話の中にはなかった様な、新たないわゆる生き方と云うか、新な信心と云うか、ね、がそれが練り出されてくる。尊いことになってくるんですね。話を聞かなければ分かりませんね。話を聞いて助かるとおっしゃるのですから、話を聞いて分からんならんけれども、なら一辺二辺聞いたからと云うて、はぁそうですか、それで分かりましたと云う様な、簡単なもんじゃない。頂いたものを一辺自分でよくよく練ってみる、自分で本気で行じてみる。
 そしてそこから、例えばよい答えがでてこないとするならば、これは自分の御理解の頂き違いとして、それを又別な角度から頂いてみる。また御理解を頂きなおしてみる。そして行じる。そこを何回も何回も練り返していくうちに、よい答えが出てくる。その答えはもうお話に頂いた以上のもの、もうそれはあなたのもの、そんなものが練り出されてくる。それはあのこうして私がお話しさせて頂いておりますのをならこれだけ沢山の人が毎朝聞いておられますけれど。
 今日のあなたご理解どこが一番ありがたかったか、聞くとめいめい違うんですよ。そしてから、もうあんたそこはほんな枝葉のとこじゃないのというとこを有難かったというておる人があるんです。で、それでもありがたく頂いてですね、そこからですね、その良いものが練り出されてくればまた別ですよ。ね、必ずしもそれは小学校の人と高校の人はそのお話を頂く、頂く感度が違いますからね。
 ですからそれはそれでよいとしてです、問題はそこから良いものが練りだされてこなければ駄目なんです。私はいつもそんなひとつの例話を必要とするときに話す話が。福岡に春吉という教会、春吉教会、私福岡で修行頂いた時分にそこによくお参りさせて頂いて、お話にやらせても頂きました。そこにある婦人の方がお参りしてきた。先生がこんこんと修行の大事なことを説かれて、その方に、そしたらまだあの柳町が盛んな時分でしたから、そこの仲居さんをしておる人だったらしい。
 その春吉の岡部という先生がその婦人に向かってこんこんとその久留米の初代の石橋先生の御修行時代のお話をしておられる。寒中でも一重ものひとつで過ごされた。敷布団を敷かずにござ一枚の上に休まれた。ね、けどもあんまりやっぱ寒いときには休まれない。そういう時にはですね、そのお神酒をかんがんとそれこそ付けてですね、それをいわば引っかけてそれをグーッといっぱい頂いといてもうそのいきで休んでおられた。
 と言った様な話をなさって、私もそばで聞きながら、初めて聞く、石橋先生のそういう話をね、有難いと思うて頂いておった。お話が終わったら、その中井さん言われること、先生あのさむかときに、かんがんと付けちから、湯どうふかなんかでやるなら、よかこつはよかですもんね、ちいわっしゃった。そげなお話を頂きながら、そげなふうに頂いちゃったわけです。
 寒か時にかんがんと付けちから、湯どうふかなんかで一杯やるなら、そりゃよかこつはよかですもんね、ちゅうて。ただ春吉の先生はね、修業とはこんなに厳しいもんだという話をしておられたんですよね。ね頂き方でそんなに変わってくる。ね、だから帰ってから、かんがんとやんなおしなさったかもしれない、その方は。そしてやっぱよかった、ち。おかげ頂きなさるかも知れませんですけれどもですね。
 湯豆腐の話まで出てきた。ね、やっぱ飲む人にはこたえん話です。そこんとこだけ、かんがんとグーッとやるとこだけは、こたえん話だったに違いないですね。ですからここでですね、分からせて頂かなければならないことは、なるほど共励しあう、練りあう、ね、これは一人では出けない。帰って今朝の御理解はこういう御理解だったがね、おりゃこんなふうに思うとる、お前はどんなふうに思うかと夫婦が練りあう。
 信者同士がお話を頂いた後に今日の御理解はどう頂くですか、もう一辺頂いてみましょうかと、私はかく頂く、そうですなと、ひとつの答えを出して、そしてそれを今度はまた実際問題の上に応用していく。行の上に現わしていく。そしてそれに答えが出たならば、頂き違いないものであるからありがたい。ね、「話を聞くばかりが能ではない。わが心からも練り出す。」と云う事はそういう事。共励する。
 今ここでは皆さんさかんにその共励がでけておるですね。共励をしあうということが大事。教祖様のこの教典の中には、「素直になれ」とか、「成り行きを大事にせよ」とか、そんな事はでておりませんですね。そういう言葉では。けども、ここではそれをさかんに私が申しますですね。素直になる、もう素直ひとつ、この教典の全てが、ま、ある意味あいに於ては素直を説いておられるとさえ、私は云う事がある。ね、
 素直な心でですね、それこそ空の上までも昇っていく道がある。神様になっていけれる道がある、と私は説く。成り行きを大事にせよ、成り行き、神様ばっかり大事にしたっちゃつまらん。お祭りしておる神様ばっかりを大事にしても詰まらん。「成り行き」そのものが「神様」なんだ。成り行きそのものが神様の働きなのだ。その働きを粗末にしておかげの頂けるはずではないか。
 これは、もう私が説いて説いて説きあかしておる事である。ね、だから、皆さんがお届けしなさると、たいがいのことは、さあ、成り行きに任せなさい、成り行きを大事にしていきなさいですむでしょうが。また、それでおかげを受けておりますよね。これなんかは、やはり私の信心から練り出されたものなのですよ。十何年前のあの御理解集の中に、私が頂いておるおかげ、ね、
 大坪総一郎が頂いてきたおかげというのは、はいの一言から生まれております、というような御理解があります。私に、ここにいま家があり、倉があり、財産があるならば、その家倉財産は私が働いたからではない。運が良くて儲け出したんじゃない。私のはいのというそのはいの言葉から、はいの心からからこの家も倉も財産も、産みなされたんだという風に説いております。ね、
 いわゆる神様の前に泣く泣くでもはいと云うてきたという事である。仲々、素直にばかりはなれないけれども、神様に逆らわなかったという事である。それはどんなに思うても神様、右の方がいいですと思うても、神様が左とおっしゃれば、はいと云うて、左の方をとってきたと云うのである。ね、そうすりゃ、もうみすみす苦しくなる、そんな事するなら、神様皆んなから笑われますと云う様な事でも、ね、
 笑われる方をとってきたことである。みすみすそんな事すりゃ、私の方が損します。それでもやはり損な方をとってきたことである。ね、そういう信心がです、私は初めから教祖の神様が「素直になれとも、成り行きを大事にせよ」とおっしゃらなかったんだけれども、そういう生き方の中から段々おかげを受けてきた。ここでは、天地の働きをここ流に表現した言葉がたくさんございますね。
 「天成地也」とか、ね、天成というのは、なりは成就の成ね、成るという字。地なりは百円なりという也です。天成地也とかね、「天恵地利」天の恵みに地の利。「天業地行」天の業、地の行いと書いてある。という様にこの天と地とのかかわり合いということをですね、あの様々に説いてございますけれども、この全てがですね、いかに天の働きと云うかね、神様の働き、天成り、天の、神様の働きをですね。
 地にひれ伏して頂けと、素直に受けよという事ばかりでございます。天は恵むもの、地は産みなすもの。ね、その産みなす働きを頂く為には、ね、自分一人で産みなすことはできない。天の恵みに浴しなければ産みなす事は出来ないのだけれども、産みなすとてもです、やはり、自分が地の、大地の心を心としての働き、ね、いわばなんと申しますかね、大地の様な信心、どの様ないやなものを持ってこられても、それを受けこなしていこうとする、じっと辛抱し抜いていくという、そこから天の恵みがさんさんと、ふりそそぐ様に頂ける様になる。
 問題は「地の信心」それを例えば私の信心の生き方から、それを行の上に表していきよるうちにです、やはり練り出されてきたものしかも。それが絶対なものとしてあの思えば思う程、絶対のものであることに気が付く。もうここに定まった、ここに極ったという様に感ずる。初めの間は、そんなに難しい事知っておる訳じゃないけども、まあ、神様の前に素直になると云うかね、自然に起きてきた事をね、決してそれをお返しをしたり、こんなものはいりませんという様な事は致しません。
 自然に私の周辺に起きてきた事柄をです、どの様な事でも黙って合掌して受けますと云うのが、いわばこれは修行のつもりでそんなことが始められたんですね、私の場合。それは様々な事がございました。けれどももうこっちが腹決めておる、もうどげなこつでんもうとにかく「はい」と受けさえすりゃええ。その中には、もう笑われる事もありゃ、損になる様な事もあるけれども、それを黙って受けてきた。
 ところが受けていくうちにですね、もう驚くべき事情がそのこちらに感じ取られる様になった。こりゃ、自然の働きというものがですね、いかにもう整然としてですね、もう一分一厘の間違いなくですね、起きておる事であり、起こされておるということが分かってきた。私の周辺に集まってくる様々な問題を通して、それをもう実感としてですね、それを確信することができるようになってきた。
ね、不幸が起こってくる。ね、損になる様な事が起ってくる。これはね、やはりそういうことが起こってこなければならない元といのうのをですね、こちらが持っておって、起ってくるのであるから、これは合掌して詫びたり礼を云うたりして頂くより他はない事が分かってきたんです。ただもう修行ではなく、受けるのが当り前という事になってきた。ね、そして私が段々気付かして頂いた事はですね。そこを受けて受けて受けぬかせて頂きよったらですね、
 今度は例えば一つの流れに致しましょうか、いやな汚いものばっかりが私の前に流れてきた。きつい苦しい事ばっかり流れてきた。こう言う様なもんはいらんと云うて向こうの方へ押しやらずに、それを頂いていきよったらです、今度はもう本当にこの様のなものを頂いてよかろうか、こんなおかげを受けてもよかろうか、と思われる位なよいものばっかりが流れて来る様になって来た。
 そこで思われる事はですね、ははあ、この自然の中に起きてくる問題を、一切合掌して受けていくということの中にです、嫌なもの、汚いもの、腹の立つような問題も、起きてくるけども、それを合掌して、それをまた修行と思うて、受けていくうちにです、なる程あのめぐりのお取払というのは、この様にして頂けるんだなぁ、ということを感じるようになったんです。
 ですから、そのお取払が頂けた時にはです、もう後からは、よいものよいものだけしか流れてこなかった。有難い有難いというものだけしか流れてこなかった。そこで皆んなはですね、こんないやなものは向こうへ押し流そうととするところへ、上からよいものが流れてきとるのまで、向こうの方に流してしまっておるという事に気が付いた。これは、私のたとえば、これは修行と思うて。
 私の上にどうゆうことが起きてくるかわかりませんけれども、どういう難儀がおきてもそれを修行として受けます、どういう損になる事が起こってくるかも分かりませんけれども、これを修行として受けますというそのただ修行で受けておったことがです。そういう大変な事である事に気付かせて頂いて、以来私はそれをね、皆さんにもそれを申す様になった。これは、いわゆる私の心から練り出されたもの、ね。
 仕事が仕事を教えると申しましょう。ね、やはり信心が信心を教えてくれる。教祖の神様はその様な説き方をなさってはおられないのですよ。けれども私はそういう風に頂いてきた。そして、それが違っておるか違ってないかという事は、答えをみれば分かるという事になってきた時です、なる程私のいうておることは間違いがないという事。なる程ここんところを本気でお互いが行じぬいていったら、必ず今度は、ね。
 お取払が出来たそのあかつきにはです、ここのところをめぐりのお取払と頂く様な場合もあろう、又教祖様のお言葉をかりると「用心しなされや、信心が進んでくると神様のお試しがありますぞ」とおっしゃったようなお試しであったかもしれない。けど、もうこちらが受ける気でおるもんですから、ね、もう受けるという腹でおりますから、もうお試しを受けてもこれに落第をするはずがない。
 神様こればっかりは受けられませんという事がなかったんですもん。受ける腹でおるもんですから。そしたら、そういう修行が始まって四年半、ちょうど五年祭をあと半年で五年祭という春の御大祭を境にですね、その事のわけがら、そのことの意味をこんこんと教えて下さった。普通でいうならもう人間の考えでは、絶対受けられない事をよう受けてきたと云うのである。
 これからはね、人間の考えでこれはいけないと思うものは、向こうへはずしてもいい。ね、例えばその当時、もう全然信心の無い人がですね、合楽の金光様に参るとそのお金なんでん先生の相談すると貸して、やんなさるげな、と云うてですね、一面識も無い人がですね、もうそれこそ涙を流して、こげな風に困っておるから、お金を貸して下さいと云うてきた人があります。私は、その時必ず貸しました。
 ところがそういう場合に限ってですね、もうお銭箱の中には、百円か二百円しか入っとらんというような時でしたよ。あの時分はこのお初穂というのがなかった。久留米辺りには随分五千円、六千円ちその時分の金を借りて借りっぱなしになっておる人が随分ありますよ。もうそれこそ棒にもはしにもかからない様な病人をですね、もう親がへきへきしとる、もちろん医者やら薬では、手につけらないような病人を預かって下さいと、それこそ物ばし持ってくるごと持ってくるんですけんね。
 そして親は寄りつかんとですけん。それでもそれは困るばのち私は絶対云わなかったです。これはもう皆さん御承知のとおりです。ね、それはもう本当にどげなこつでん有りました。四年半の間には。どうですかその事のですねこれを受けてきた、それにはこういう訳がらがあったとこんこんと神様から御理解頂いてですね、是からはですね例えばここでなら修行、お金を貸してくれとかくれとか言う様なものがある場合にはね。
 与えなきゃならんぐらいは与えてもええけれどもね、ただでないならば与えてはならないということになってきた。又箸にも棒にもかからんごたある病人は預かってくれというときには預かってはならんということになってきた。また預かって、預けて、あの借りにくる者も、もらいに来る者も預けに来るものも・?なかったです。もうそれは切ってついだ様にはっきりしておりましたですね。
 あの辺の時分の事を思うてみると。いかにそれが神様の御都合であったか、またお取払のためのそういう働きであったか、又はお試しのためのそれであったかという事を感じます。まあ、その時分の事を云うと、沢山まあ、それこそひどい話、面白い話が沢山ありますよね。けれども、もうこっちが受けるというどん腹を据えとるもんですけん、お伺いする事もいらん。よう皆さんの中にはですね。
 自分でよたよたするごたある問題が起こってくると、もう自分でだいたい決めておりながらですね、どうさして頂いたならよかろうかという人がある。だからそげん時に私が楽なほうを取らせるです。もう取る気がないからお伺いに来るのですからね。本気で受ける気になったらですね、受けられん事はない。そして、そんなに苦しい事はないです。と云う様にですね、私はそういう信心をさせて頂きよるうちにですね。
 自然の働きのなかには、もう一分一厘の間違いのない働きの、神様の計算が立てられておってからのこれであるという時ですね。ですからその後が一分一厘の間違いのない働きとして、今度は有難い働きが尽きぬおかげになって、表れてくる様になってきた。それはそんなら初めの間はそれは修行と思うてである。ね、同時にそれが今から考えてみると、素直という事であった。
 どんな事でもはい、泣く泣くでもはいと受けてきたという事。ね、それが今日の合楽の元であるという事なんです。ね、これを云うならば、今日の御理解から云うとね、話を聞くだけではなくて、それを本気で行じて、ね、しかも私の信心、心から練りだされたものがそういうここで「おかげの決定版」とでも申しましょうかね。ここが行じられたらもう絶対のおかげが受けられると云われ。
 又そこ迄高められておる所の教えが、いくらもここに残っておりますがそれなんです。皆さんとても同じ事話を聞くだけが能ではない、聞いたらそれを練らにゃいかん。勿論自分の心でも練る夫婦親子で、又は信者同士で練らにゃいけん。そしてそれを行の上にかけてみてそして又練り直さなければいけん。そして初めて答えがでる。ここに本当の答えがでた時にこれはおうておった自分のものになっておったという事になる。
 もし答えがでないなら、もう一辺聞き直さなければいかん、練り直さなければいけない、という事が分かります。どうぞひとつ練り直し練り直しですね、いよいよ信心を練っていく。これはもう相当信心が話を聞くばかりが能ではない、話を聞いただけではぁ、なるほどそうだな、もっともだなと思うただけでおかげを受けるんです。心が開けるからです。けどももうそれだけではいかん。ね、
 そう頂いたものを今度は練らなきゃいけん。ね、練って練って練りだしていくとことにです、ね、それこそ羊羹が練って練って練り上げてあるから、悪くならないようにですね、それが自分の練って練って練っていくうちに自分のもの、自分の徳、自分の力になる。ね、それが私は有難いという信心。わが心からも練りだすがよいというのは、そういうことだと私は思うんですよ。
   どうぞ。